本文へスキップ

『トラブルに巻き込まれそう』というときは早めの相談が大切です

TEL. 075-256-0224

〒604-0931 京都市中京区河原町通二条西入宮崎ビル2階

弁護士法人 中 村 利 雄 法 律 事 務 所
-NAKAMURA LAW OFFICE-      

リレーコラムCOLUMN

2020年

ちらりとのぞいたアメリカのあれこれ(2) 弁護士 中村映利子               

(前回の続きです。2017年秋から2019年夏まで渡米して参りましたが、その中でのぞき見たアメリカと日本の違いを、私の感想を交えてご紹介させていただいています。)

(2)座席を譲る譲らない問題

   ネットを叩けばごまんと出てくる、バスや電車での座席譲る譲らない問題。これも、アメリカと日本では全く違うと感じました。アメリカではそこに論点や炎上など起こりようもないほど、多くの方が当たり前のように席を譲ります。

   帰国して間もない頃、JRの吊り広告にこんなものがありました。かわいいイラスト付きで、席を譲る際に胸の中に現れる恥じらいの感情を怪獣に例え、「『●●ザウルス』をやっつけよう!」と啓蒙するものです(やや不正確な記憶ですが…)。帰国後数日で、まだ感覚がアメリカ色に染まっていた(もとい、アメリカかぶれであった)私には、目にして数秒「席を譲ると、何が恥ずかしいの?」と、なんのことを言っているのか分かりませんでした。

    先ほどネットを叩くとごまんと出てくると述べましたが、このネットの議論を見ていると、面白い傾向が見られます。こういう議論で出てくるフレーズは「・・・べき」、「・・・は悪くない」、「本来は・・・」。この論調で話者が求めているものは「正解」です。客観的な正解は何なのか、完全解を見つけ、それに則って行動をしたいという欲求が、そこにはあるように思います。

   そのような欲求の是非はさておき(これが社会を良い方向に動かす場面もあると思いますので)、少なくとも、席を譲ったり重たいものを持ったりドアを開けたりするアメリカ人に、そのような考えは全く頭に浮かんでいないことは確かでしょう。彼らの行動規範はとても単純です。「そこに困った人がいる、手を貸そう」、それだけです。自分が割を食ってもかまわないし、相手に断られてもかまわないし、万一失礼な態度で返されたときには「彼はクレイジーだね」と周りにいる人と肩をすくめておしまいです。相手と自分を天秤にかけ、譲る「べき」かどうか思案するような過程を経る様子は、まず見受けられません。私自身、ベビーカーを抱えて地下鉄の階段を上っているときに声をかけてくれたのは、腰の曲がったおじいさんでした。息子に席を替わったり、妊娠中の私にドアを開けたりしてくれたのも、決して筋骨たくましい紳士だけではなく、華奢な女性も、高齢者や障害者の方もいらっしゃいました。

    帰国してすぐの頃、京都駅前のカフェで、0歳の娘を抱っこしながら持っていたラテをトレーごと床にひっくり返してしまったことがありました。子どもとバッグを抱えて紙ナプキンで床を拭いていると、外国人観光客の男性が「いま店員を呼んだから大丈夫だよ」と声をかけ、トレーを拾ってくれました。狭い店内はすれちがうにもぶつかりそうなほどの満員満席。すぐ横にも前にも日本人はいました。しかし、誰からも声はかけられませんでした。

   また、先日の土曜日、エレベーターのないハンバーガー屋さんで、子ども二人を連れて、肩からカバンを提げ、左手で買い物袋を掴み、ベビーカーを担ぎ、右手で食事の乗ったトレーを持って階段を上ったのですが、これまた、誰からも声をかけられませんでした。日曜日のランチタイムで店内は満員でした。

    以前は当たり前だったことが、アメリカで一度暮らすと、なんとも違和感を覚えます。手助けを必要としている姿が見えていないはずはないと思います。何をすれば良いかわからないわけでもないと思います。それでも何もしないためには、「見えないふり」という演技が必要になってくるはずです。日本人は皆演技が上手だということに気づかされました。そして残念なことに、私も以前はそんな日本人の一人だったわけです。

    では、なぜ日本人は人助けをしないのでしょうか。日本人の方がアメリカ人より心が冷たい?面倒くさがり?そんなわけではないと思います。

    日本文化は「恥の文化」とある文化人類学者が言ったそうです。確かに私たちは、相対的に見て「他人からどう見られるか」を強く意識するように思います。シカゴで通っていた学校で、「日本では『ユニーク』は必ずしも褒め言葉ではない」というと、皆一様に驚いていましたが、日本人はそれが高評価か低評価かにかかわらず、とにかく他と違うこと、他人の目に留まることを極力避けたがる傾向にあるように思います。結局、見て見ぬふりをする演技が上達したのは、この延長線上にあるのだと思います。

   それならば、いっそのこと、日本が人助けを『する』のが当たり前の国になってしまえばいいなと、心密かに思っています。人助けを「しない」ことが他人の目に留まってしまうくらい、「する」のが当たり前になってしまえばいいなと。

   ではそんな社会にするには、どうすればいいのでしょう。最も効果的な方法は、大人が子どもの前でやってみせることだと思います。社会の常識や「普通」の感性は、大人が子どもたちの前でどんなふうに振る舞うかで決定づけられていくように思います。一世代、二世代が変わった頃には、今よりもっと素敵な日本になっていればいいなと、心密かに夢想しています。

【2020年1月記】


遺留分制度の改正について  弁護士 平尾嘉晃

第1 改正前の遺留分制度
  遺留分減殺請求権には、物権的効果がありました。背景としては、家督相続の下、「家」の維持・存続のため、戸主の財産を家族共同体の中に留めておく(物権的にも)ことが主眼とされたのです。

2 そのため、減殺の対象となった財産の財産権が、当然に遺留分権利者に帰属することとなり、その結果、既履行の給付は、返還請求の対象となり、未履行の給付は、相手方からの履行請求に対して履行拒絶ができるとされていました。

3 また、減殺の対象となった財産は、相続財産に復帰しないのが原則とされていました。
 最高裁判例も以下のように判示していました。

「特定の遺産を特定の相続人に相続させる遺言、全部包括遺贈について、遺留分減殺請求の結果として取り戻された財産は減殺請求権者の固有の財産となり、相続財産に復帰せず、したがって、共同相続の場合であっても遺産分割の対象とならない。」(最判S.51.8.30 裁判H8.1.26 最判H8.11.26 など)。

4 そのため、以下のとおり手続きが複雑でした。
①まず、原則として遺留分減殺請求は、現物返還請求や、所有権移転登記手続の形で、民事訴訟となります。共有の解消の場合も、共有物分割請求となり、やはり民事訴訟となります。そのため、地方裁判所に訴訟提起することになりますが、家事事件手続法第244条、第257条の調停前置主義の適用を受け、家庭裁判所への調停申立てが必要となります。
②例外として、割合的包括遺贈や、相続分の指定などの遺言書によって遺留分侵害されている場合には、侵害する内容の相続分の指定等が修正されるに留まり、取戻財産が相続財産に復帰することとなります。
 そのため、共同相続の場合、遺産分割未了として、家事審判別表二の遺産分割審判の対象となります。したがって、この場合、家庭裁判所に遺産分割の審判申立てすることとなります。

5 価額弁償はあくまで抗弁事由
物権的請求が原則ですが、例外的に、相手方は、目的物を返還する代わりに価額弁償を選択することができます。

第2 改正後の遺留分制度(物権から債権へ)
1 形成権である遺留分侵害額請求の意思表示をすることによって、遺留分侵害額に相当する金銭債権(金銭給付請求権)が生じます。なお、遺贈、贈与は失効しません。遺留分制度は、これまでのような「家」の維持・存続のためではなく、近親者(被相続人によって住居や生計を維持してきた家族共同体の構成員)に対する生活保障に主眼があることとされました。

2 遺留分侵害を理由とする金銭給付請求権は、遺留分を侵害された者が相手方に対して有している固有の権利となります。行使した結果得られた金銭は、遺留分権利者が自己の固有の財産として保持することとなり、給付された金銭が相続財産に復帰することはありません。

3 なお、金銭給付請求を受けた受遺者または受贈者が、直ちに金銭を準備できない場合もありますので、請求を受けた受遺者または受贈者は、裁判所に対して「相当期間の付与」を請求することができるようになりました(第10475項)。

4 侵害の対象が、割合的包括遺贈、相続分の指定の場合であっても、遺留分侵害額に相当する金銭債権(金銭給付請求権)が生じることになります。

 したがって、これらも全て民事訴訟で行うことになり、手続きは民事訴訟に一本化されました。これまで、割合的包括遺贈、相続分の指定の場合は、家事審判別表二の遺産分割審判の対象となり、家庭裁判所に遺産分割の審判申立とされていましたが、かかる複雑な手続きが簡略化されました。ただし、家事事件手続法第244条、第257条の調停前置主義の適用を受けることに、特段変更はないので、「訴え」提起前には、家庭裁判所の調停申立てが必要となることに変わりはないようです。

【2020年3月記】


未知なるものとの闘い  弁護士 宮﨑純一

 「UFOに遭遇したときの手順をしっかり定めたい。」と、ある国の大臣が述べました。
 これは、空想のSF小説やSF映画の中の話ではありません。現実の世界の話です。ある国とは、日本です。

 令和2年4月、河野防衛大臣は、自衛隊の航空機などがUFO(未確認飛行物体)に遭遇した際の手順を定める考えを示しました。同月27日、アメリカ国防総省が、高度で上空を移動するUFO(未確認飛行物体)だとする映像を公開したためです。これから人類は、未知なるものであるUFO、宇宙人と闘っていくことになるのかもしれません。あるいは、宇宙人と共存していくことになるかもしれません。

 人類は、今まさに、未知なるウィルスである新型コロナウィルスと闘っています。新型コロナウィルス感染症によってお亡くなりになった方々におかれましては、お悔やみ申し上げます。また、重傷化された皆様におかれましては、一日も早いご快復をお祈り申し上げます。

 人類は、未知なるウィルスを克服できるのか、根絶は難しくとも、平穏な生活を取り戻すことができるのか、今、人類の英知が試されています。これまで人類は、幾多の未知なる危険を克服してきました。
 我々弁護士も、未知なる事件に遭遇することは、多々あります。自分が経験したことのない事件、前例のない事件など、未知なる事件に遭遇したとき、当然、怖いと感じます。しかし一方で、使命感からか、弁護士として、これを克服しなければという気持ちにもなります。

 個人の皆様も、事業者の皆様も、新型コロナウィルス感染症によって甚大なる影響を受けておられると推察します。事業者の皆様への支援策につきましては、経済産業省の新型コロナウィルス感染症関連のサイトが参考になりますので、ぜひご参照ください。

 https://www.meti.go.jp/covid-19/

 そして、様々な施策について、手遅れにならないよう早めの法律相談をお勧め致します。

 我々は、未知なるものとの闘いを、今回も必ずや克服できるものと信じています。

【2020年5月記】


自分であることの証明  弁護士 佐藤建

 あなたが○○さんであること(私ならば「佐藤建」であること)を証明せよ、と言われたら、どうしますか?

 選挙の投票所では生年月日(場所によっては月日のみ)を聞いたり、電話での問い合わせでは住所と生年月日を聞いたりして、本人確認をしていることが多いと思います。しかし、人の住所や生年月日は、その人しか知らない情報ではありませんから、覚えてさえしまえば他人でもその人になりすますことができますので、証明というには不十分でしょう。

 そうすると、運転免許証やマイナンバーカードなど、写真付きの公的な証明書を持参して証明を求めている相手のもとへ出向き、この証明書を見せて、その写真の人物が自分であるから、証明書に書いてある氏名、生年月日の人物が自分である、ということになりますが、証明としては十分でしょうか。
 写真に写っているのは過去の人相や髪型ですので、私のように変化の余地が少ない髪型であればいいのでしょうが、髪型や人相が変われば(写真写りによっては劇的に変わる可能性もあります)、写真の人物が目の前にいる人なのかどうか、判断し辛くなります(私はこの判断が苦手です)。仮に、このような変化がなくても、写真の人物が自分である、ということを言葉で説明するのは難しいと思います(顔の画像で人物の同一性を判定するコンピュータープログラムは、予め決められた仕組みに従って判断をしていますので、写真の人物との同一性を言葉で説明する助っ人になってくれるかなと期待しています)。見た人によって同一人物かどうかの判断が変わるのであれば証明とは言い辛くなりますので、写真で証明できるのかは不安が残ります。

 では、どうやって私が「佐藤建」であることを証明するのでしょうか。

 この問題を考えるにあたっては、「佐藤建」がどのような人物であるのか、という定義を検討する必要があります。つまり、「佐藤建」を、本籍○○、生年月日○○、性別○という戸籍に記録された「佐藤建」であると定義すると、これらの情報と一致すれば「佐藤建」であるということになりますが、これだけではなりすましの危険があることは先にみたとおりです。
 そこで、以上に付け加えて、住所が○○で、写真の人物、というように情報を追加して定義すると、その写真の人物と一致すれば「佐藤健」といえそうですが、写真での証明に不安が残ることも先に触れました。

 そうすると、私が「佐藤建」であることを確実に証明するためには、その人にしかない情報を追加して「佐藤建」を定義する必要があります。例えば、人の指紋は、二つとして同じものがなく、終生不変、と言われていますので、ある時点で指紋を採取して、この指紋を有する人物が「佐藤建」であると定義すれば、指紋の一致により他の情報がなくても私が「佐藤建」であることを証明することができます。また、人の虹彩や静脈の形状などの生体認証に用いられる情報を用いて定義をしても、同じように証明ができるのではないでしょうか。

 技術の進歩によって人の同一性を判断するために用いることができる情報は格段に増えています。また、印刷技術の向上により、写真のある証明書であっても偽造が不可能とは言えなくなっています。このような時代における個人の特定のあり方としては、従来からある戸籍等の情報に加えて、指紋等の情報を利用することを考えてもよいのかもしれません。個人情報の保護が問題となっているご時世に、新たな情報を集積するとは何事か、とお叱りを受けるかもしれませんが、社会や人の多様化はますます進んでいきますので、自分であることの証明(自分認証)を考えておくべきだと思います。

 さて、以上の文章にある「」のうち、一つだけ私の名前ではないところがありますが、分かりましたか?
(ニンベンの有る無しで変身します!)

【2020年6月記】


バナースペース

弁護士法人中村利雄法律事務所

〒604-0931
京都市中京区河原町通二条西入宮崎ビル2階

TEL 075-256-0224
FAX 075-241-2691