2002年1月12日 朝日新聞朝刊掲載

          弁護士 吉 田 誠 司 

「遺産分割」
 
  何事も迅速を重んじる世の中である。ビジネスやパソコンの世界では反応がちょっとでも遅いと「使えんなあ」の一言。法律が改正されるスピードも速くなっている。しかし、自分の権利や義務の問題をいつものビジネスと同じように常に即断即決で急いで決めてしまうのはとても危険である。
 例えば遺産分割。親が亡くなり、幸か不幸か遺産があれば「遺産分割」という面倒な問題に直面する。親が元気だった時は特に不仲というわけでもなかった兄弟姉妹が、互いに微妙な緊張関係に立たされてしまう場合がある。
 核家族化が進んで親子が別々に暮らすことが当たり前のようになってる今は、遺産を巡る紛争はより複雑、かつ深刻になってきているように思う。
 同居していない子には、遺産の全容が分からない。老齢の親が、たまに帰省した子に甘えて言っただけかもしれない言葉も子を惑わすことがある。

 以前、こんな事件を担当したことがある。
 父親が亡くなった直後から子らの間で様々な疑念、不安、予断が渦巻き始めた。
 「遺産て、どこになんぼあるのやろ」「都会に出た自分からは遺産分けは言い出しにくいしなあ」「お袋は、よく兄貴の嫁さんにつらく当たられるって愚痴こぼしてたなあ」などなど。
 そこへ同居していた長男が遺産分割協議を迫った。「税金の問題があるし、早く遺産分けを決めてしまわないといけない。だからこれに印鑑を押してくれ。遅れると延滞税がかかる」。子らは遺産がいくらあるのかよく分からないまま、印鑑を押した。
 ところが、その2年後、ひょんな事から実は遺産はかなり多額で、さらに悪いことに父親が亡くなる直前に父親名義の預金から多額の金が引き出され、使途不明になっていたことも分かったのである。
 「兄貴だましたな!」とばかり、紛争がぼっ発した。
 しかし、遺産分割はそんなに急ぐ必要はないのである。相続税の申告期間(死亡後10ヶ月以内)を遺産分割の期限と誤解している人も多いが、期限が法律で決められているわけではない。
 そもそも、相続税の心配をしなくてはいけないのは、遺産が8千万円以上あるような(法廷相続人が3人の場合)、比較的資産家の場合だけだ。相続税が課税される場合でも、協議が済むまで法廷相続分で仮に納税しておく方法もある。

 いずれにしても、相続税のことで焦る必要はない。せっかく親が残してくれた遺産なのだ。慎重に、全員納得の行くように時間をかけて、腹を割って話し合い、兄弟仲良く円満解決するのが親への恩返しというものだ。物心ついた時から骨肉相争っているような兄弟なら仕方ないが、よく分からないまま、焦ったばかりにいらぬ紛争となるのは一番の親不孝である。
 いったん疑い始めたら、兄弟姉妹の溝は限りなく深まっていく。家庭裁判所に解決を求めても、調停、審判に至ってから何年もかかったりする場合もある。そうした骨肉の争いをみていると、「そうなる前にゆっくり調べて話し合い、心を開いて協議していればもっと早く解決できたのになあ」と思うこともある。法律の世界は、いつでも迅速が良いというわけではないのである。